慶長15年(1610)、徳川家康の命による名古屋城築城が、城下町大須のはじまりでした。多くの寺院や武家屋敷は清洲から移されたものです。戦前は名古屋でもっとも賑わう街として、毎日のように大道芸や相撲、芝居が各所で催されました。
大須をそんな賑わいの町にしたのは、芝居好き、遊郭好きの七代目尾張藩主、徳川宗春(平和公園に石碑あり)のようです。遊郭を開業させたのも徳川宗春だったとか。頭の柔らかい、庶民的な藩主だったようです。参拝客と寺院ばかりの堅苦しい町は、興行というもう一つの魅力を得て、名古屋一の繁華街として賑わいはじめました。
残念ながら元文4年(1739)、宗春の失脚と同時に遊郭は禁止され、芝居も原則禁止(黙認)となりました。残る興行は、軽口ばなしや、釣り人形などの見せ物でしたが、見せ物もいろいろで、ストリップショーなどは大繁盛したようです。
遊郭が復活したのは明治6年(北野新地・旭遊郭)。第二次芝居ブームと、三百人を越える娼婦で、大須の町の活気にあふれました。禁止された張見世のかわりに娼婦の写真を使用したため、写真館の開業ラッシュも起こり、大須は写真でも有名な町になりました。
明治25年(1892)3月22日、火災により大須観音本堂、五重塔、民家百軒以上が焼ける悲劇が起こりましたが、明治43年には路面電車(新栄〜上前津)が登場し、大須観音境内に映画館が登場しました。人はどんどん集まり、町は少しずつ商店街へと姿を変えていきます。
しかしその後、第二次世界大戦により、大須の町は再び大きな被害を受けました。大須観音の境内は焼け、復興土地区画整理事業により繁華街が分断され、映画が流行らなくなり、市電が廃止され、名駅・栄地下街の発展とともに、大須の町はどんどん廃れていきます。
そして昭和45年、大須観音の本堂が再建されました。遊郭と興行に浮かれた大須の町の再興は、これがきっかけでした。現在ではそんな歴史の跡をほどよく残しつつ、パソコン街として東京の秋葉原、大阪の日本橋に並んで全国に名を知られ、大須観音に見守られた町として、国内外からの観光客を迎え入れています。
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